25年生きてみて
どうも、わいんです。
今日は、自分のお葬式に誰が来てくれるのか、誰が悲しんでくれるのか、とか考えてました。
別に死ぬつもりはないですし、そんな勇気もないです。
ただなんとなく、自分がいなくなった後のことを考えて、誰かの役に立てたり、悲しんでくれる人はいるのかな?と、疑問に思ったんです。
毎日Twitterでぐちぐち言うのもいいんですけど、見てるほうもきっと楽しくないし、自分の好きなことだけつぶやいてればいいんじゃないの?嫌なら見るな!なんて考えもできないので、ブログを立ち上げて色々、吐き出していこうと思いました。
タイトルにあるように、この25年で、自分がなぜこのような人間になってしまったのか、自分なりに考えていこうと思います。
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生まれてから小学校まで
1992年に、茨城の真ん中あたりで生まれました。一人っ子です。
あまり子供のころは覚えてないんですけど、親に聞く限りとにかくせわしなく、泣き虫だったみたいです。
幼稚園では、女の子2人にいじめられていた記憶しか残っていません。
初めてゲームをやったのは初代ドンキーとか、ディグダグだった気がします。
家にファミコンがあったので。
小学校の低学年もあまり記憶にないです。ただ好きな子にいじわるして泣かしてしまったことだけは、はっきり覚えてます。今でも後悔してます。
あと、すごく仲のよかった友達が長野に引っ越してすごい寂しかったのを覚えています。(そのあと家族で1回だけ遊びにいきました。今は交友はないです。)
このころはドンキー2とか、ドンキー3とかマリオRPGとかやってたと思います。
ドンキー3でどうしてもアーリックが倒せなくて親父と協力してクリアしたのは、今でも覚えています。
小学校の高学年のころは、友達も結構いたと思います。
スマブラはすごいはまって、結構友達の中では勝ててるほうだったと思います。
5年生か6年生ぐらいの時、友達と3人ぐらいで、1人の友達をいじめて先生にめちゃくちゃ怒られたことはまだ覚えています。
今思えば、そのいじめられていた彼は自分で先生にいじめられていることを言い、解決したのですごく強い人だったんだな。
自分としてはからかっているつもりだったのですが、相手にとってはとてもつらいことだってあるんだな、とその時の経験から学びました。
あと、パソコンを使い始めたのは4年生のときぐらいでした。
当時はちょうどFlash全盛期で、み~やさんのNightmare Cityで感動して、今思えばあそこから厨二病発症してたんだな、とか思います。
あと、めっちゃ食べるの好きだったし、親も外食とか連れてってくれてたので、すごいデブでした。
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中学校
僕の人生の最初の分岐点はここだったのかな、とか思います。
部活はソフトテニス部に入りました。練習がとてもしんどく、中2のころには人生で一番痩せてたと思います。
顧問の先生には、色々お世話になり、今でも感謝しています。
中2の2~3学期ぐらいから、不登校でした。
いじめられてたとかではなかったんですけど、なんか学校に行く意味を感じられなくなっちゃって、
また同時に当時はネトゲにはまってて、(メイプルストーリーとか、テイルズウィーバーとか、トリックスターとか。)
引きこもってました。ゲームしたり、ラノベ読んだり。
ただ、なぜか合唱際とか修学旅行とか、そういうイベントには行っていました。
今思えば周りの人は不登校だった人が急にイベントだけ来て気まずいだろうなあって思います。ごめんなさい。
親とも喧嘩したし、正直、自分なんていなくてもいいのかな、とか思いました。
自分の存在意義、とかを考え出したのがこのあたりです。
しかしそんな僕にも親はとても優しく、「とにかく死ぬのだけはダメだ。生きてれば必ずいいことがある。楽しいことがある。」と言われて育ったので、できるだけ命は大事にするようにしています。
中3ぐらいかな、さすがに高校にいかないわけもいかず、親が見かねて家庭教師の先生を呼んでくれました。
最初は正直嫌でした。勉強はそこまで嫌いではなかったけど、不登校の自分を教えるなんて先生も大変だな、俺なんかに構ってもらって申し訳ないな、とか考えてました。
まあ、その先生のおかげでなんとか一時期は通信簿でオール1(出席してないので)をとった僕も、高校に入れました。
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高校生
高校は、最寄り駅から1時間ぐらいかかるところでした。そのぐらいのところじゃないと、多分他では入れるとこがなかったんでしょう。
私立で、しかも一番学力の低いクラスでした。
まあ、なんとか勉強は頑張っていたので、入学前のクラス再振り分け試験のような
もので、1個上のクラスにあがることができました。
当時は、中学の時にお世話になった家庭教師の先生が行っていた大学を目指そうと思っていました。
よくわからないけど、助けられて、自分もそういう人になりたいと思い、同じ道を目指したのかもしれません。
高校は色々ありました。彼女ができたり(自分で告白しておいてその後自分で振りました、今でも申し訳ないことをしたと思っています)、生徒会長を目指してみたり(結局なりませんでした)、3年生のときにはさらに上のクラスに行き、必死に勉強したり。
3年生のときは、気の合う友達も増え、1,2年生のときと比べてあまり勉強に打ち込んでいなかった気がします。(それでもそこそこはやってましたが)
夏休み明け、担任に「お前の希望する大学は無理だよ」と言われたのを今でも覚えています。正直殺意が沸きました。自分の努力不足だっただけなんですけど。
それでも副担任の先生は、推薦で目指すように言ってくれ、無事に推薦で希望の大学に行くことができました。
あのときは、本当に嬉しかったです。
ただ、このことは今まであまり人には話していないのですが、僕は正直大学に受かったら生きている意味がないと思っていました。
中学の時に親に迷惑をかけ、その恩返しのつもりで大学に受かろう、と思っていたので、一種の燃え尽き症候群のような、感じになっていました。
大学生
それでも、大学は楽しかったです。地元ということもあり、小、中の同級生もたくさんいたので、最初は安心できました。
そのおかげというか、サークルなどにも特に入らず、大学生活を過ごしました。
初めは推薦で入ったこともあり、勉強についていけず、1年の夏ごろに正直やめたいと思い、親に泣きながら相談したのですが、周りの助けもあり、なんとか単位をとれ、続けられました。
大学生活は遊んでばっかりでした。
ロードバイクにはまったり、MHFにはまったり、AVA(FPS)、格ゲーにはまったり、
友達と旅行にいったり、とにかく遊んでました。
オフ会なんかも結構やって、最初は抵抗があったんですが、(当時はネットの友達と会う→出会い系?みたいな認識もあったと思います)
行ってみるとやはり楽しく、東京とか、名古屋とか、行きました。
今では交流してない友達もいますけど、(喧嘩とかもしたんですが、あの時は本当に子供だったし、申し訳ないな、と思っています)多くの友人、知人を作ることができました。
バイトは大学生になってから初めてやりました。コンビニとか、家庭教師とか。
4年生のときの研究室では、あまり研究に取り組まず、当時は音ゲーとか、FPSとかにはまってて、駄目な大学生でした。
大学院の推薦ももらっていたので、就職活動などもせずに適当にしていたのですが、
4年生のときの12月ぐらいかな?教授にこのままでは大学院にはいかせられない、と言われ、(正直、だったらもっと早く言ってくれ、とか思いました)
遅すぎる就職活動をすることになりました。
周りの友人はもうほとんど決まっており、焦るばかりでした。
ここが人生の分岐点の2つ目だったのかな、と思います。
とにかく働かなきゃ、と思い、地元で色々探したり、受けたりしたんですけど、どうもうまくいかなくて、たまたま東京でセミナーを受けたところから、ぜひ入社しませんか?と返事があったので、とくにその会社を調べもせずに、決めてしまいました。
そのあとはなんとか卒業でき(研究発表は散々でしたが)、東京で1人暮らしをすることになりました。
社会人(1回目)
1人暮らしはしたことがなかったので、正直不安でしたが、してみると意外となんとかなり、飯は近くのスーパーか牛丼屋で、洗濯も週1とかでなんとかやってました。
ただ、会社のことをまったく調べていなかったので(一応SEのようなところだというのは知っていた)、入社式のようなものに4月の頭に行ったところ、「君たちは7月入社だ。3ヶ月は研修ということで、頑張ってもらう。」
みたいなことを言われ、これは、直感的にやばいんじゃないか?とか思っていたら、案の定、研修期間は給料も出ず(そもそも入社していない)、出るのは昼食代ぐらいでした。
まあ、そんなこんなで3ヶ月乗り切り、その当時の同期も研修中に4分の1ぐらいはやめたんですけど、無事に入社しました。
ただ、そのあと派遣された先が、一人暮らしをはじめたところから凄まじく遠く(電車で1時間半~ぐらい)、上司もきつく、仕事も狭い部屋に閉じ込められてひたすらPCとにらめっこするような仕事で、すぐに精神的に病みました。(地下鉄に飛び込めば楽になれるのかな・・・とか考えてました)
3ヵ月後の10月、退職をしました。
取締役?っていうんですかね、その人にすごい怒鳴られたのを覚えています。
いきなりすぎる、とかここでやめたらどこでもやっていけない、とか、なんか色々言われました。
まあでも今思えば、辞めてよかったのかな、とも思います。
そのあとは、地元で働こうと思い、資格を取るために地元の専門学校に通いました。
ここが人生の分岐点の3つ目だと思います。
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専門学校
23歳で地元の専門学校に行きました。
もともと食べるのが好きだったり、うちの家計は糖尿病の人が多いので、栄養士の資格があれば働けるんじゃないか、とか軽い気持ちだったと思います。
学校は、楽しかったです。当初は18歳の人たちと仲良くするのは無理だと思ってましたが(部活とかサークルとかで後輩との絡みがあまりなく、年下はあまり得意ではなかった)、友達も結構できたし、高校の時にできなかった生徒会長もやったし(ボロクソ言われてることもありましたが)、勉強は得意だったので回りに教えたり、テストもいい成績とれたりしましたし。
卒業式では、答辞も読ませてもらい、また、学校長賞 みたいのももらえました。
また、入学前から、飲食系でバイトしておけば役に立つんじゃないか、と思い、地元の友人の紹介もあって、お弁当屋でバイトしていました。
とても忙しく、すごい給料がいい、というわけではなかったですが、人はとてもよかったし、可愛がってくれたこともあり、いい経験になりました。
卒業後、内定はもらっていたのですが、そのお弁当屋でも正社員を募集しており、慣れていたこともあったので、内定をわざわざ蹴り、バイト先にそのまま就職しました。
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社会人(2回目)
バイトとは違う、と思い知りました。
とにかく朝が早く(日によって違うのですが、3:30~4:00ぐらい)、帰るのも他の会社の定時ぐらい(16:30~18:00)ぐらいだったので、体力がもたなかったです。
休みも週に1回あるかないかだったので、月の労働時間は350時間ぐらいだった気がします。
また、残業代というのも特になく、どれだけ働いても月に18万ぐらいでした。(保険も入っていない)
最初のうちは頑張っていたのですが、3ヶ月して、休みもないし、残業代もでないし、頑張るほど無駄なんじゃないか・・・と考え始めてしまい、周りに相談してもやはりそれはおかしいということで、長くお世話になったところではあるんですが、退職しました。
その後は、またすぐに働かなければ(というか辞めたかったので他の仕事を探した)、と思い、専門学校の先生に相談しにいきました。
ここが人生の分岐点の4つ目だと思います。
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社会人(3回目)←現在
学校の先生の紹介もあり、すぐに内定が決まりました。
病院の栄養士という枠でした。
待遇もよくしてもらえ、休みも週に2回、残業代もでる、とのことだったので、すぐに働き始めました。(今月の1日からです)
ただ、仕事、人間関係でどうしてもうまくいかず、入って1週間でもう辞めたい、と思うぐらいでした。
仕事内容は単純なのですが、どうしてもスピードを求められ、体力的にもきつく、パートのおばさんにきつく言われたり、無視されたり、することもありました。
前の仕事の疲れから、まだ抜けてなかったのもあるのかもしれません。
甘えるな、とか、ここでやめたらどこにいっても同じだ、とか、色々言われました。
とにかく頑張れ、と言われ、一応来月の1日から、また別なもっと楽なところに異動になるのですが、正直、この仕事は向いてないな~と自分で思いました。
大学のときから、とにかく働かなければ、という気持ちが焦りすぎて、気づかぬうちに自分を追い込んでいたのかな。
とりあえず現状としては、今月は今の職場で、来月からは別な職場で、働くのですが、正直今はゆっくりしたいです。貯金もすごいあるわけではないですけど、甘えるなとか働きながら仕事探せとか言われると思いますけど、とにかく疲れました。
平日よりも休みの日のほうが憂鬱で、何もしなかった・・・とか、休んでも仕事だ・・・とか考えちゃうんですよね。(休みが連休ではなく、1日休みっていうのもあるとは思う)
以上が僕の25年です。長々と、拙い文章ですみません。
これからどうなっていくのかはわからないですけど、できるだけ楽しい人生にしたいとは思っています。
ただ、今はとてもそんな気分にはなれないです。
自分の葬式のことを考えるぐらいですし。
こうやってみると、努力してた高校生のころの自分が一番好きですね。逆に一番嫌いなのは今の自分かもしれません。中学校のころと比べて色々経験してもこうなっちゃってる分タチが悪い。
今週末には幼馴染の結婚式もあり、友人代表スピーチを読むことにもなっているんですが、正直、今の僕にそのような幸せな舞台でのいい言葉が言えるとも思えず、憂鬱ですが、なんとか祝福できるように頑張ります。
頑張らなくていい、とは言われるし、助かっているんですけど、何か言っちゃうんですよね、頑張らなきゃ。頑張るわ。って。
これからどうなっていくんでしょう。自分の人生なのに、なぜか他人事みたいです。